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【書コラム『書は悩ましい芸術ということ】

白の中に黒を落としていく芸術『書道』は非常に難しい。

自己の作品であっても他人の作品ならなおさらに『美』の評価が難しい
 

先日、うちの飲み書会に見えられた方もそういうことで悩んでいらした

尺牘や普段使いの書、扇面や飾るための軸にする半切以下のもの、展覧会作品...みなそれぞれに美観の定義も書き方すら違うのがまずひとつの原因。もうひとつの原因は会派や師により『美観はさまざま』というのがあげられる。

 

手紙や普段遣いの書は自分の筆跡で淡々と書けばよい、それがいちばん呼吸感もあり、相手に伝えることができるから。行の振れや墨色もその気分でやればいい。

 

扇面や部屋に飾るお軸なんかは美観を意識する。季節感や飾られる方、またはその来客さんを意識して表現したいように書く。夏は淡墨で涼しげに。冬は濃墨重厚に顔真卿で...とか。僕はこれがいちばん『その人の自然な作品』っぽくなるんじゃないかなあ...と思っていたりする。

 

展覧会作品は体育館とかで10点とかずらっと並べて審査員の挙手によって選ばれるからそのなかで『戦う書』になる。だからいろんな意味で『強さ』が要求される。起筆の強さであったり、黒の濃さであったり、線の重厚さであったり。だからあまり自然ではなくなってくるような気がする。
そもそも目的が違うこの3カテゴリーを比較することはまったく無意味なのだから

 

大抵『師』といわれる方はそういうモノの書き方を教えてくださる方を言う。
『自然な書』ではないから師によって美観もさまざま、これが悩ましい原因なのだろうと僕は感じている。

そのうえどこの展覧会にいっても賞作品も形態さまざま、もちろん美はいろいろあって良いと思うけれど...だから皆迷うわけだ。だからその『書』のルーツを知るための勉強は必須となる訳。
 

近代の展覧会書のなりたち、その師が『いつ、どのようにして、何を勉強していたか』がまた今その『教えている書』...結果へのルートとなるからその周囲の変遷と影響を見るのがその方本人を理解することにもなる。つまりは『展覧会の書家の作品の歴史』を勉強することが必須になる

 

本当に勉強とは奥が深いものだと近頃は本当にそう思う

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