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『目習い』という言葉がある。


自分の作品をつくづく考えれば、他人に渡せるようなものは年に1~2点。ほとんどの時間を費やした展覧会作品ではなく、力を抜いた条福レベルのものがよいような気がしている。
そっちのほうが感性にあっているというか自分らしいというか、まあそんな感じ。

で、近代の先生の作品を拝見するにつけ『僕らの展覧会の作品は寄ってるよなあ』とおもう。僕はその水域にいるけれど展覧会に出すための書は『審査で戦う書』であり、どうも自分らしくない...と。

美観は勉強した人により作品のその性質と品格が異なる。覇気や凄さを見せる人、空間と品格を見せる人、その他いろいろ。
書は人間性であると思う。ただその人間性において『凄さを見せ付けるだけのものは如何なものか...』と思い始めた。どうも『俺はスゴイスゴイ』といっている線質は今の僕の目には『雑』としか映らない。ブラッシングがしたければ書でなくてもよい...とさえ思える。

まだ初めのころは先生が展覧会に行くたびについていき、すべての解説を聞きながら帰ってからメモしたものだった。それはいまでも続いているのだけれど、『どの書が、どのように良く、どのように悪いか』それはまったく素人目にはわからない。

ただ綺麗なだけでは書ではない、自分と対峙し作品に添加させた際の『人間くささ』みたいな『醜』の部分もあっていい、そんな風に考えるようになってきた。

​なにせ、『自分のすべてを投影させる』のが書であるならば、キレイキレイでは済まされない。

で、いろいろな好きな書の展覧会に行けば、いくつかの作品的な参考が必ずあるのだ。数年前はまるでわからなかった赤羽雲庭の『醜』のよさだったり。赤羽雲庭は王羲之・王献之にあれだけ傾倒しながらなぜそうなっていったのか...をよく考えたり、著作を読んだり。

そのように一人ひとりの書作家のエッセイを読みながら、近代書道史の系譜を考えながら、彼らが『なぜそこにいたったか』をたずねるのが近代書家の展覧会を尋ねる醍醐味と考えるようになった。
 

また拝見しに伺うようにするかな...と

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